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Astor Piazzollaとの出会い①

  • 執筆者の写真: Ryoko K.
    Ryoko K.
  • 2017年6月10日
  • 読了時間: 3分

Astor Piazzolla(アストル・ピアソラ)。

今でこそフィギュアスケートでは定番の作曲家であり、「Adios Nonino/アディオス・ノニーノ」や「Otono Porteno/ブエノスアイレスの冬」などはとても人気のある曲ですが、実はピアソラ・ブームが始まったのは1990年代後半だったことをご存知ですか?

それもクラシックの世界が発信源でした。

ギドン・クレーメルのアルバムから端を発したピアソラ・ブームを、私は何も知らないまま、けれど偶然が重なって割と早めに出会うことが出来ました。

初めてその音楽を耳にしたのは、宝塚の舞台でした。 ショーの中で使用されていましたが、明らかに宝塚の作曲家のものではないとすぐに分かりました。 なぜなら、楽曲そのものが普段の舞台音楽とは次元もクオリティーも違っていたから!(これでも一応、宝塚好きです/笑)

「なんだ、この曲は?!」となったものの、その時は調べる方法が分からず、ただ繰り返しその場面をよく見ていました。(ちなみにこのショーのトップコンビはダンスが秀逸で、とても素敵な場面でした)

その後暫くして「これだったのか!」と出会った曲こそが「Libertango」でした。 曲調からタンゴであることは間違いなく、そこらへんを必死に調べた結果でした。(頑張ったよ、私!!) 探していた曲をみつけたこの時の嬉しさは、今でもはっきりと覚えています。

出会ったとは言っても、ピアソラ本人の演奏ではなくロシアの音楽家による演奏でした。 ブックレットには「ギドン・クレーメルのアルバムの1曲に参加したロシア人音楽家の面々」とありました。 どうやら今では手に入らないCDとなってしまったようですが、1曲目にLibertangoが入っています。

その頃から、自他ともに認める音楽オタクであった私は、誰とも共有することなく一人でピアソラを楽しんでいましたが、その後、ボストンで幸運なことにたくさんのピアソラのCDを購入することが出来ました。

初めてWorld Musicコーナーに「ピアソラ・コーナー」を見つけた時は、友達そっちのけで喜んでいたように思います。

ピアソラ本人の演奏は、咽び泣くようなというか、哀愁たっぷりです。 それこそアルゼンチン・タンゴのステップのように、大地を撫でるように滑る重厚さとでもいいますか・・・。

それと、ジャズのインプロヴィゼーションのような、或いは体の内側から衝動的に湧きあがってくるようなメロディーライン。

男女が体を密着させ、長い脚を交差させて踊るあの姿のように、肌に纏わりつくような情熱を私は感じています。

タンゴ・ピアソラータの演奏は、それよりは少し軽やかな雰囲気で、都会のような洗練された雰囲気かな?

(注:あくまで比較であって、決して軽いわけではありません!!ピアソラが都会じゃないわけでもありません!!)

ピアソラはパリでクラシックを学び、そこで自分のルーツを自覚したそうです。 今でこそ世界中を熱狂させている彼のタンゴですが、彼がこのスタイルで作曲をした当時は、アルゼンチン・タンゴの世界では異端扱いされ、相当風当りがきつかったとのこと。 「これはアルゼンチン・タンゴじゃない!」と祖国では全否定。 それでも良いものは良い。 結果、今となっては「アルゼンチン・タンゴを芸術に高めた作曲家」として、従来のスタンダードなアルゼンチン・タンゴとは一線を画した「アストル・ピアソラ」というジャンルになっています。

ピアソラについては、多くの思い出があるので、また別の機会にじっくりと書きたいと思います。

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